「当たり前」であることの幸せと感謝
地元に戻ってきて、2日経つ。
昨日は、四国でお世話になった方々へのお礼状を書こうと思っていたものの、朝からひたすら寝ていた。疲れからなのか?安心感からなのか?
衣類の洗濯はしたものの、料理を作る気力は湧かず、お茶漬けで夕食も済まし、早々に休んだ。
今日は、なんとなくやる気もあり、午後からお手紙作りに入るつもり。朝食は手抜きして菓子パンを買ってきてしまったが、夕食はしっかり自炊するつもり。
身体の疲れはない。疲れがあるとしたら、精神面だろう。ただ、昨日、久しぶりに「ぐうたら」したことで、だいぶ疲れも取れたみたいだ。
つい1ヵ月前までは、こういうことは、ただの「ぐうたら」に過ぎなかっただろうけれど。
四国滞在最後の夜に宿泊した、民宿の女将さんとの会話。最近は、お四国参りをしてくる人々の意識が変わっているそうだ。
十「いやあ、こんなにおいしい食事をいただいていいんですかね?私は、しっかり眠れるだけでも充分満足なのですが・・・。」
女「そういってもらえる人って、今は珍しいのよ。昔とはお遍路さんの『気質』が変わっているみたいでね。道中、いったいどんなところに宿泊しているんだろう、って思っちゃうくらいよ(笑)。」
十「それって、不満とかが出るとか?」
女「そうですよ。うちとかでも、苦情が出ることあるもんね。うちレベルでだめなら、普通の古き良き『おじいさん・おばあさんがやっている民宿』なんて、今のお遍路さんはとてもじゃないけれど、泊まれないんじゃない?」
十「でも、そういう民宿であえて不便な生活を体験することも、お四国参りの醍醐味じゃないですかね?」
女「そうだと思うけれどね。今はそうじゃないみたい。それに、やっぱり民宿って、儲からないからね。苦労の割に、実入りが少ないから、跡継ぎも出なくってね。ここいらあたりでも、だいぶ民宿がなくなったですよ。」
十「お遍路の公式ガイドブック(空海の史跡を尋ねて 四国遍路ひとり歩き同行二人 [地図編] へんろみち保存協力会 編)にも書いてあったんですが、オンシーズンには『相部屋希望で宿を取りましょう』とも書いてありましたよね。相部屋希望の宿泊とか、実際あるんですか?」
女「順打ち(1番札所から88番札所に向かって巡礼することをいう。徳島県⇒高知県⇒愛媛県⇒香川県の順。私は、今回、逆に廻った。これを逆打ちと呼ぶ)での、徳島県内の民宿では、相部屋宿泊をした人の話は聞きますけれどね。高知県から先では、もう、今は相部屋はしないみたいです。というか、できないみたいね。5年くらい前あたりからかな。うちも、そんなに部屋があるわけじゃないから、広い部屋に泊まっていただくお客さんには、『もし、相部屋希望の方がいらっしゃったときは、相部屋でもかまいませんか?』って聞くんですよ。昔は、そんなにいやな顔をされたことはなかったんですけれどね。今は、露骨にいやそうな顔をされる方もいるし。」
十「たとえば、もう満室で『相部屋になりますけれども』と伝えたら、どうですか?」
女「今は、ほぼ100%来ませんね。『個室はないんですか?』と再度聞いてきます。で、『ないんですよ』というと『じゃあ、他を探します』、と。でも、3月~5月とか9月~11月の、いわゆる『オンシーズン』になると、どうしたってお遍路さんの数の方が、宿泊施設の数を上回るんですよ。それで、相部屋がだめとなると、どうやって宿泊の場所を確保するんでしょうね(笑)?」
十「車中泊とか(笑)?」
女「ああ、でかい車で寝ちゃうとか、ね(大笑)。」
ちなみに、その日の民宿は、「冷暖房完備。6畳和室でふかふかのふとんあり。ユニットバスとトイレは共同で先に着いた宿泊客に優先権あり。食事は夕食のみ。洗濯機と乾燥機はコイン式だが、洗濯洗剤は無料。」
これで、税込5800円。これ以上、何を望むか?
逆にいえば、このレベルで不満をいうお遍路さんは、いったい、どういう宿なら満足するのだろうか?案外、すべてが自分の自由になるという意味では「野宿」がいいのかな?
昨日、朝から昼過ぎまで、自宅のソファーベッドで、身体を横にしながら、思った。
雨に濡れず、身体を休める場所がある。実は、そういう場所があることが、人間にとって一番安心できて、幸せを感じられることではないのか、と。
人間の根源的生命的欲求として、「睡眠欲」「食欲」「性欲」、の3つがよく挙げられる(間違っていたら、ご指摘下さい)。これらの欲求のうち「どれが一番重要か」ということは、100人いれば100人、バラバラだろう。
私は、迷わず「睡眠欲」である。今回のお四国参りでも、宿だけは確実に確保するようにしていた。
雨風に打たれることなく、暖かいふとんで身体も精神もしっかり休めることができれば、身体的な疲れは、ある程度取れる。そこに「入浴」という要素が入れば、身体の清潔も保て、汗も落とせる。明日への切り替えも、それなりにできる。
そこをクリアできれば、食欲は、ある程度耐えることができる気がする。
私の場合は、次の札所に行くことに気持ちが行ってしまい、昼間は「食べる」ということを忘れてしまっていた。そういう日々が続くに従って、1日1食でも歩ける身体に変わっていったような気がする(ただ、体調維持のために、朝食か夕食は必ずある程度の栄養のバランスを考えて、しっかりと食べていましたよ)。
性欲は、起きるはずがない。順打ちであれば、巡礼の途中で同じ方向を歩くお遍路さんに会う可能性もある。しかし、逆打ちは、すれ違うことはあっても、同じ方向に向かって歩くお遍路さんにあることはめったにない。今回は、1度もなかった。まして、女性が1人で歩いて、お四国巡礼をしている姿は、それだけで珍しい。
そうなってくると、残るのは「睡眠欲」。これだけは、基本的な体調維持のためには不可欠である。特に、私は眠りのリズムが崩れると、すべてのリズムが崩れる。
お四国参りは、私にとって「非日常の空間」である。非日常の空間で、身体的・精神的な健康を維持するためには、まず「よく眠る」ことが重要だと感じた。
「非日常の空間」では、私たちがいる「日常の空間」の常識は捨てなければいけない。日常の空間で享受している「当たり前のことやもの」が、非日常の空間にはほとんどない。非日常の空間で、私たちが目にし、体験することに対して、あれこれいっても変わるわけではない。
一万回、苦情や文句を言って、変わるものなら、お四国参りは、もっと快適なものに変わっているだろう。ただ、その分、お四国参りの「本質」も変わってしまっているだろうが。
非日常の空間にあっても、私たちはその環境に順応しなければならないし、いつの間にか、順応している。そうでなければ、少なくとも「通し打ち(四国八十八か所札所巡礼を、1回ですべて廻り終えること)」を叶えることはできないだろう。
そして、非日常の空間から、日常の空間に戻ってくると、いかに私たちが「当たり前に過ごしている空間に対する感謝の念」を欠いていたか、ということを痛感する。
そのことに改めて、幸せを感じ、感謝の念を持って、生活していくことが、お四国参りから戻ってきて、最初に感じたことだ。
雨風をしのげる場所でぐっすりと休むことができる。水道の蛇口をひねれば、冷たい水が出てきて飲める。スイッチをひねれば、電気が通り、様々な機械を操ることができる。
普段「当たり前だよ」と思っていたことが、実は「とても貴重なことだ」ということに気づかされる。そして、その「当たり前」な諸現象に対して、感謝の念を持ち、無駄使いをしないように配慮をする。
そういうことを感じることができたことが、実は「お四国参り」に出た後の、私自身の変化につながっているのかもしれない。
人間は「当たり前」にできることを当然と感じてしまいがちだ。私もそうだ。しかし、今一度、なぜそういう環境の下で生活ができるのか、を振り返る機会を設けてみるといいのかもしれない。
いかに「当たり前」ということが、幸せなことで、大いなる感謝に値することなのか、を理解できそうな気がするのだ・・・。
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